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2010.9.14 【心】
Novel stage / origina:Abyss of Time
《Passing》
「はい……はい、わかりました。すみません。失礼いたします」
通信が切れたのを確認して僕は研究室の電話の受話器を置いた。
じっとこちらを見て結果を待っていた紫さんへ内容を報告する。
「心さん、アルバイトへ行ってないそうです。今日は用事があると最初から休暇を取っていたとお店のご主人が」
「そうか」
紫さんは大きな溜息をついて椅子の背もたれに寄りかかった。
アルバイトに行くといって『久遠の薔薇』研究所から出発してそろそろ三十時間。研究助手として、メンテナンスの対象者として毎日顔を出していた心さんから、こんなに長い間何の連絡もないのは初めてのことだという。
二十四時間が経過した時点で、紫さんは各所に指示を出した。
必要最低限の言葉しか口にせず、あとはじっと机の上を眺めている姿は研究している時とも、遊んでいる時ともまた違う戸惑ったような雰囲気を漂わせている。
こんなに不安定な紫さんを見るのは初めてだった。
そして、次に行うべき行動が取れない僕も不安定なのだろうか。
それすらもわからないまま、暫くの間、時計の秒針が時を刻む音だけが響いていた。
「……なあ、すずな」
沈黙を破ったのは、紫さんの力ない呟き。
「心は……研究所から出奔したのだろうか。たった三年では、ここは心の居場所にはなれなかったのだろうかね……」
自信を失った言葉の羅列がとても悲しそうに聞こえる。
心さんがここにいたうちの半分も一緒にいない僕には紫さんの悲しさはわからない。けれどもう会えないのだとしたら。日常を教えてくれた人が、戦い方を教えてくれた人が、注意してくれる人が、もういなくなる。
その想像は、酷い喪失感を伴った。
けれど、同時に思い出す。
心さんの困った顔も怒った顔も思い出せる。けれど、僕が見た心さんはいつも穏やかに微笑んでいた。
僕は顔を上げた。
「……心さんは、いつも笑っていました」
「そうだな」
一気に憔悴した目が僕へと向けられた。
何を言っていいかわからない。けれど、今は何かを言うべき時だとぼくは思ったのだ。
「戦っている時には心さんは笑いません。そして、紫さんは笑うのは嬉しい時や楽しい時だとおっしゃいました」
気がつけば、動き始めてから培った僅かな記憶の中から浮かんだ言葉を整理もせずに発していた。
「心さんが笑っていたのは、心さんにとってこの研究室は嬉しかったり楽しかったりする場所で、毎日いてもそう思えるようなだったということではないでしょうか」
「すずな……」
「それに、心さんはとても礼儀に気を配っている人です。もしいなくなるのであれば、書置きや伝言を残して行くと僕は思います」
僕自身がわかっている。これはただの願望でしかないことを。
知られるのを少しでも遅らせる為。理由が説明できない為。いくつでもメッセージを残さない理由なんて僕の脳裏には浮かんでくる。
でも、きっと。
今紫さんが欲しいのはそんな言葉ではない。
「だから、何かが」
まだ言葉を続けようとした僕は、口を閉じた。
こちらを見ていた紫さんが、今にも泣きそうな顔をしていた。
「そう、だな」
ふらり、と紫さんは立ち上がった。おぼつかない足元に僕は慌てて駆け寄って紫さんを支えた。
すると、紫さんの両腕が僕をぎゅっと抱きしめた。
僕よりも背の低い紫さんでは大きく腕を広げても包むのは少し厳しい。それにも構わずに力いっぱい抱きしめている。縋り付いているのかもしれない。
「……なあ、すずな。心を迎えに行こう」
涙声が一生懸命に言葉を紡いでいる。
「今回のことであいつの立場は悪くなるかもしれないけど、迎えに行ってもいいよな?」
心さんは紫さんの研究員とはいえ、製作者不明の人造人間として『久遠の薔薇』の監視対象でもあった。それが連絡もなしにいなくなったとなれば、ただでさえブラックボックスの多い心さんへの心象は悪くなる。
それでも。
「はい。僕も行きたい、です」
「よし」
ばっ、と顔を上げた紫さんは白衣を翻す。そしてつかつかと大股で机へ歩み寄るとコンピュータを起動、僕が見たことのない画面を表示させた。
「紫さん、それはなんですか?」
「いざという時……こんな形じゃなくて、イレイサーの戦闘で遠くに飛ばされた時の為にこの施設から百キロメートル以上はなれた場合作動する発信機をつけてある」
映ったのは『久遠の薔薇』を中心とした地図。海岸線が白、他の部分が黒く染まった画面にはここから西へ百三十キロメートルに赤い点が光っていた。
「大体の位置はわかりましたね」
「大丈夫だ。お前に言葉を残したやつはリコリスの咲く場所で会おう、そう言ったんだろう。だとしたら簡単だ」
紫さんがブラウザから映し出したのは、彼岸花の咲き誇る写真。それは赤点のエリアに存在する有名なリコリスの園だった。
「よし、行くぞ」
「はい」
もう泣きそうな顔など微塵も見せない紫さんに、僕は頷いた。
Fine.