365 letters 2010.4.14 忍者ブログ
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2010.4.14   【店】

Novel stage / original:Abyss of Time

《社会勉強》


 


 

 心さんが、珍しく怒っていた。
「皐月さん、今、なんて言いました?」
「だから、すずなを社会に慣れさせてやってくれないかと」
 僕があのカプセルから出て一週間程立った日、朝の紫さんと心さんのやり取り。
 目覚めはしたけれど、僕はこの建物から出ることはなかった。軽い運動をしたり、いろいろな検査も沢山あったから。
「問題はそこじゃなくて。その後の言葉なのだけれど」
「ん? 十日くらい、心の所に泊まり込みさせるつもりだって言っただけだが」
 心さんは毎日のように会いに来てくれるけど、ここ――研究所に住んでいるわけじゃなかった。街中で一人暮らしをしながら、最近は紫さんの研究を手伝っていたらしい。
「何も、いきなり道に放り出すようなことしなくてもいいじゃないの。話でもシミュレーターでも使って、少しは耐性とか」
「そういうやり方は嫌いだ」
 朝ごはんを食べている僕の前で、紫さんはゆったりと足を組んで座っている。ちなみに心さんは机越し、つまり僕の隣で立ち上がっていた。
「大体、そんなもの練習にもならない。百聞は一見にしかず、ってね」
 なぁ、すずな。と、にっこり笑う。
 僕はよくわからなかったので、パンを齧りながら首を傾げただけだった。
 心さんは納得しなかったみたいで、まだ言い続けていた。
「それに、なんで私なの」
「ちょっと出張が入ってるんだ。まったく、修理くらい覚えろボンクラどもが、と言いたいところだが、見捨てるのもあれだしな」
「私である理由になってないわよ」
「その間、すずなを一人にしておくのか。すずなは私たち以外知っている者はいないというのに」
 この時、僕は紫さんと心さん以外の人と会う事はなかった。もちろん研究所には沢山の人がいたけれど、皆、自分の研究が忙しかったからだ。
「……っそ、それは……」
 心さんがちょっと言葉に詰まったところで、紫さんがこれで話は終わり、とばかりに立ち上がった。
 白衣がばさっと翻る。
「いちいちこちらに通うくらいなら連れて行け。何、襲ったりしないさ」
「さ、皐月さんっ。なんてことを!」
 心さんの顔が、真っ赤になった。
 さも可笑しそうに紫さんは笑って、ぽん、と肩を叩く。
「ははは。ま、そういうわけでよろしくっ」
 そのまま軽い足取りで部屋から出て行った。
「あ、すずなにかかった分の金は後で請求してくれ。
 すずな、心の言う事をよーく聞いて、いい子にしてるんだよ」
 最後に、と言い残して。
「――っ、あの人はーっ!」
 とても怒っている横で、僕は、はい、と返事。
「ごちそうさまでした」
 ちょうど朝ごはんを食べ終えた。

 心さんはまだ怒りながらも、僕を建物の外へと連れ出してくれた。
 広がる空に背の高いビルが並ぶ街。大勢の服装の違う人々。ただの道路でさえ、僕にとっては初めて見るもの。
「うわぁ……」
「一度覚えるまでは迷うと戻れなくなるわね。すずなくん、手を離さないで」
 右も左もわからなくてきょろきょろする僕の右手を、心さんは握っていた。ごはんみたいに、あたたかい手。
「はい」
 それからゆっくり歩いていって。落ち着いてきたのか、普段のように心さんが信号待ちの時に訊ねた。
「紫さんは、この辺についてどこまであなたに教えてくれたのかな?」
 僕は今まで紫さんが言った言葉を思い出す。
「……人が沢山いる町だ、と」
「そ、それだけ?」
「あとは心さんが教えてくれるから教える必要はない、とも」
「さ、皐月さん本当に全部私に任せるつもりなのね……」
 心さんはがっくりと肩を落した。信号が変わってもなかなか動き出さなかったので、僕が引っ張っていった。
 それでも道路を渡りきると気持ちを切り替えたのか、しっかりと顔を上げて僕を見た。
「今更言っても仕方ないわよね。昼からアルバイトがあるけど、それまでざっと街を案内するわ」
「はい。わかりました」

 そして、お昼時――

 大学前にある小さなパン屋、心さんのアルバイト先は大繁盛していた。
「はい、すずなちゃん、心ちゃん。運んでいってね」
「はーい。すずなくん、そっちをお願いね」
「わかりました」
 大勢の学生で店内がごった返す中、心さんと僕はお店のおばさんからパンの入った籠を受け取る。あとはパンを置けばいいのだが、最初に教えられた通りの場所にたどり着くまでが大変だった。
 僕はほとんどの学生より背が低いので、腕を伸ばして籠を頭の上に籠を浮かせる。その体勢で人や物の隙間を縫うように歩いていく。
 運ぶ間にも。
「あの、クロワッサンないんですか?」
「レジの右側にあります」
「あ、ホントだ! ありがとう!」
 こうして話しかけられることもある。ほんの僅かな距離でしかないのに酷く時間がかかるのだった。
 空になった籠をレジの後ろ、調理場へと戻すと既に次のパンが焼きあがっていて、また繰り返す。
 そんな時間が数時間続いて、漸く一段落ついた。

「ごめんなさいね。急にバイトが一人これなくなっちゃったからってヘルプ頼んで」
「いえ。勉強になりました」
 僕と心さんはお店を出る。
「でも、疲れたでしょう?」
 心さんは心配そうに僕を見た。確かにエネルギーの補給が遅れている為、所謂疲れた、という状態にはなっている。
「いいえ。お客さんの熱気には驚きましたが、これが働くということなんですね」
 けれど、それ以上の学習効果はあった。労働と、人間との関わり。
「これが紫さんが言っていた社会勉強なんですね」
「そ、そうね……ちょっと違うかもしれないけど、確かに社会勉強ではあるわ」
 心さんは一瞬首を傾げながら、優しく微笑む。
「それじゃあ、いきましょうか」
「はい」
 僕は自然と伸ばされた心さんの手を取っていた。


 Fine.


 

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