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2010.5.31 【糸】
Novel stage / original:Absoetia
《まもりいと》
ひゅっ……。
微かに空気を切る音がラートの側を通過する。
彼と切り結んでいた目の前の覆面を被った刺客はまったく音に気付ず、その背後で剣を持った覆面の男の首が飛んだ。
どさり、と落ちる二つの鈍い音。
咄嗟に振り向いた覆面を騎士の青年が一撃で戦闘不能にまで追い込んだ。
ぴぃーっぴぃっぴぃーっ!
あたりに高い笛の音が響き渡った。少し離れたところにいる黒い覆面たちが一斉に逃げ始める。
「逃げる気か」
ラートが呟いて足を止めると、後ろに控えていた黒衣のヴェールを纏う人影が言う。
「逃がしません」
女性にしてはハスキーな声が断言すると、再び空気を切り裂く音。ついで幾人かの絶叫が響く。
「この区画を封鎖しました。後は任せます」
起こしたことと比べて平然とした口調で黒の人影は言った。
しばしの沈黙。その後に騎士の青年は頷いた。
「……気をつけろ」
「自分の身くらい自分で護ります」
黒い手袋の中にきらり、と光る筋。光さえ目を凝らさなければ見つけるのは難しいだろう。
黒い長衣の人影が得意とする鋼糸。細くしなやかな糸は目に見えない速さで空を切り、人一人の首くらいならあっさり刎ねる。
そして糸を振るうのではなく張る事に用いれば、封鎖することも簡易の結界とすることも出来る。
それでもラートは気にしながら、自らの職務を果たしにいった。
王子を狙う刺客を、捕まえる為に。
騎士の青年が行った後、長いドレスの裾を手馴れた様子でさばきながら、人影は言う。
「隠れてないでお出でなさい」
レースの指先が示すと建物の影から現れたのは、やはり黒衣の人影。ただヴェールとドレスで黒衣の貴婦人にも見える人影とは違い、現れたのはタキシードに黒いマスク、マスカレイドにいそうな格好だった。
「私に何か御用ですか」
「"杭"としての本分を忘れるな、との念押しに。必要なかったようだが」
「敵に無駄な力も情報も見せる必要はありません。当然のことです」
「味方にも、だ」
数少ない露出部分である口元が、にぃっと笑みの形を作る。
「一般人、騎士、王族。何も知らぬ者は知らぬままでよい」
「改めて言われるまでもありません。さあ、用事が済んだのならお戻りになられては」
不機嫌そうに答えたヴェールの人影がすっと空を示す。鳥でもなければ飛び立てないような何もない空。
だが、平然とタキシードの男性は答えた。
「そうさせてもらおう。"黒の貴婦人"殿」
途端、その黒い姿は浮かび上がる。翼もなければ風もないのに、長身はまるで空へ吸い込まれるように消えていった。
「くれぐれも油断せぬように……」
笑みを含んだ声色の一言を残して。
見送った"黒の貴婦人"は改めて手の中にある鋼糸の感触を確かめ、しっかりと張る。
そして呟いた。
「……余計な世話をかけてくるものです」
時折伝わる死の感覚を握りつぶしながら、支援用の糸を繰り出した。
ほどなくして、刺客は全て縛り上げられたという。
しかし、彼らの中には命を落としたものも多く、斬られた者の他に体を大きく抉られた者もいる。
誰にも知られることはなかったが。
Fine.